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Deutsches Institut für Japanstudien

細部

2015, ISSN (Online) 1869-2737, ISSN (Print) 1869-2729, de Gruyter, Berlin and New York, 88 p.

著者

Heinze, Ulrich
Matsunaga, Louella

Contemporary Japan 27, No. 1

Body Concepts: Changing Discourses of the Body in Contemporary Japanese Society

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コンテンツ

ロナルド・ザラディン
Between gyaru-o and sōshokukei danshi: body discourses in lifestyle magazines for young Japanese men

本稿では、日本の若い男性に向けの2つのライフスタイル誌が、男らしさをどう取りあつかっているかについて、身体に関するディスコースから研究するもので ある。両誌は、外見のディスコースを男らしさの構成に組み込んでおり、それゆえに、ジェンダーのディスコースが一般的にどのように変化したかを示している が、理想化された男性像に関しては、互いに大きく異なる。「ChokiChoki」は、主にヘルスケア、美容、そして身体全体を扱っている。そこでは、女 らしさとして明確に理解されてきたことが男らしさのディスコース構築の戦略として組み込まれている。一方、身体と性的行為に焦点を当てている「Men’s egg」は、筋肉質の体を理想化すると共に、それを男らしさを表す同誌の主要な側面の1つである性的能力にリンクさせる。「Men’s egg」のターゲットは、いわゆるギャル男であり、覇権的男性性に強く拠っているのに対して、「ChokiChoki」による女性的な慣例の取り込みは、 草食系男子に近い理想像を構築する。両誌とも、覇権的男性性のメカニズムを再構築しながら、意味論的に男性のハビトゥスや身体言語を拡張する。

キーワード: 身体のディスコース、ジェンダー、マスメディア、男らしさ、ライフスタイル誌

DOI: 10.1515/cj-2015-0004 [external]

pp. 53 - 70

Martinez, Dolores
Bodies of future memories: the Japanese body in science fiction anime

本稿では、20世紀末の日本のアニメにおける戦う女性の役割を分析する。これらのヒロインたちは、ただ単に日本国家を代表する「少女」、また、単なるオタ ク欲望の投影、あるいは女性ファンを引き付けるための女性像ではないことを示すものである。むしろそれよりも、これらのヒロインたちが今日的なジレンマか らの逃避を提供する「サイボーグ女神」として表現されると考える。彼女たちが誰もしくは何を救済しているのかという分析からは、現代の苦境と将来への懸念 を表しつつ、理想化された日本の過去に戻りたいという願望が暗示される。これらのヒロインたちは、強い個性に基づき、「名誉ある個人主義」 (Ikegami 1995)を具現化する。そして、彼らは現状への順応主義に挑戦することで、変化を生成する可能性がある。

キーワード:: アニメ、SF、少女、個人主義、ロストジェネレーション

DOI: 10.1515/cj-2015-0005 [external]

pp. 73-88

Matsunaga, Louella
Bodies in question: narrating the body in contemporary Japan
pp. 1-11

Miller, Aaron L.
Foucauldian theory and the making of the Japanese sporting body

2020年東京オリンピックのような国際的なスポーツ競技には、国家主義的、また、勝利やメダルを至上のものとする勝利主義のパラダイムがつきものであ る。このようなパラダイムにおいて何よりも重視されるのは、スポーツする身体が他を従えることが可能であるという点である。国家的なスポーツ意識は、多く の場合、このパラダイムを反映しており、日本も例外ではない。このようなパラダイムにおいて、どのようにして国際的な力関係は、スポーツする身体、国民の スポーツ意識、およびそれらの知識を形成するのであろうか。この問に答えるために、本稿ではミシェル·フーコーの理論を日本のスポーツの歴史的研究に用い る。フーコーの権力の理論、特に「バイオパワー」と「生産的」な「権力関係」の性質の概念を用いることで、日本人のスポーツする身体の認識、ことに、日本 のスポーツする身体は独特であり、日本以外の国と比べると劣るという認識の歴史的な転換の過程をよりよく解釈することができる。国際的な権力関係と、文化 的に劣るという認識が、日本人のスポーツする身体に重くのしかかっている。それが、特に、あたかも国家全体がチームとして捉える場合に、そのチームのため の義務を果たすというような行為、または、最善のチームプレイのために、トレーニングも共に行わなければならないという、ナラティブなディスコースも生み 出す。

キーワード: スポーツする身体、国家主義、身体国家、バイオパワー

DOI: 10.1515/cj-2015-0002 [external]

pp. 13-31

Innami, Fusako
Co-sleeping: engaging with the commodified dozing body in Kawabata, Yoshimoto, and Yamazaki

本稿は“添い寝”サービスを通して、現代日本における身体概念の変化について考察する。川端康成著『眠れる美女』(1961)、吉本ばなな著『白河夜船』 (1989、*2015年映画化)、山崎紗也夏の漫画『シマシマ』(2008-2010)を例として、批評理論等を取り入れながら検討する。『眠れる美 女』で、主人公の男性は睡眠薬によって眠らされた女性たちの身体に触れる。眠りを通してのみ他者の身体に触れる人間関係のあり方は、次のような疑問を読者 に投げかける−−どこまで身体性を共にできるのか、添い寝サービスにおいてどのような親密さ・欲望・愛が在り得るのか、そして眠る他者性と関わるとはどう いうことか。社会学や人類学の分野で添い寝は家族関係を主とした親密なコミュニケーションとして研究されてきたが、上記の3作品において添い寝は、他者に 触れ、身体の温もりをシェアすることを目的とした消費サービスとなっている。近年の東京とニューヨークにおける実際の添い寝サービスの出現を踏まえ、本稿 は初めて添い寝サービスを文学・文化研究の対象として取り扱い、現代日本社会における商用化された眠る身体について検討する。

キーワード: 添い寝、親密さ、愛、タッチ、意識の不在、他者性

DOI: 10.1515/cj-2015-0003 [external]

pp. 34-52