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近代日本史におけるアジア主義:植民地主義、地域主義、境界会議使用言語: 日・英同時通訳助成:国際交流基金
2002年11月29日 - 2002年11月30日
冷戦終結後の国際政治情勢の変化及び国際秩序の再構築の中で、地域内の協力、統合という傾向が急速に進んでいる。国レベルの取り組みは不十分なままにされる一方、万国理念を現実化するには未だ程遠いという時代において、地域主義は国際協力に向けての足掛かりとなっているようである。ヨーロッパは、地域統合と国民国家の壁を乗り越える探求の先駆者として考えられているが、北米も経済統合という点ではヨーロッパに追随している。しかし、国境を越えた地域統合の制度化という面では、アジアという地域に於いてはなおあらゆる多くの障害にぶつかっているようである。ASEAN+3イニシアチブのような新たな取り組みなども、未だ過去の遺産を背負っているように思われる。この過去の遺産の重要な一局面としては、(汎)アジア主義の思想を取り上げることができる。このアジア主義は、東アジアにおける地域統合に向けた初期の動きの思想的底流でもありながら、日本のアジア植民地支配を正当化する手段としても利用されてきた。このような経過をたどったことは、アジア主義の研究にとって大きな問題になったと言えよう。
そういう過去の経験を念頭におきながら、現代のアジア地域主義概念の先駆としてのアジア主義(汎アジア主義)の思想・運動の探究、歴史的観点から地域統合への思想的、制度的な取り組みを検討し、アジア主義思想の様々な利用及び形態のあり方を分析するのがこの会議の目的である。加えて、この会議では、歴史上のアジア主義思想と、よく知られている「アジア的価値観」の現象との関係を分析した上、アジア主義が日本の外交政策、思想史に於いて永続的な力として残っていることを明らかにすることをも目的としている。
汎(Pan-)運動(汎スラブ主義、汎ゲルマン主義、汎ヨーロッパ主義)の概念は、本来ヨーロッパ史の枠組みの中から始まったので、アジア史の一局面を分析するには適切でないという声もある。しかし、早くも19世紀後期には「アジア主義」あるいは「汎アジア主義」、「大アジア主義」の用語が、日本のメディア、知的論説・論議、そして外交政策で使われていたのである。それ以降も(汎)アジア主義は様々な形で現われ、東アジアに於ける日本の植民地支配を正当化する道具として、日本の地域ヘゲモニー覇権に思想的な底流として機能していた。一方、アジア主義思想はそのような国民国家の国利追求のための政治的手段という一次元的な解釈を越えた性格もある。つまり、汎アジア主義思想はアジアの人々を植民地支配からの独立を求める闘争へと突き動かす手段として、また「欧米」に対する自らの地域アイデンティティーを確立する道具としても役に立ったのである。更に汎アジア主義概念は今日でも用いられており、普遍的であるとされている欧米の考え方に対し、いわゆる「アジア的価値観」を定義しようとする中に最も顕著に見られる。この視点に立って考えると、汎アジア主義現象はヨーロッパの様々な「汎」運動よりも国民国家の国境を超えた性格が強いのかも知れない。集団的地域アイデンティティー確立の為、国民国家の国境を越えて、一定の結合力のある文化的要素、例えば言語/文字、宗教、歴史上の共通の経験、地理、人種などに注目したものと思われる。この会議では、19世紀後期から第二次世界大戦後までの日本に於けるアジア主義のもつこれらの側面を取り上げることにより、アジア主義、汎アジア主義と地域主義の一般的な歴史的背景の研究に対して、ケース・スタディを取り上げることで、理論的な面からの貢献と、更に将来の研究をも鼓舞することを目的としている。参加者は歴史学、政治学、社会学、日本学の分野を専門とする研究者である。
発表
1日目 2002年11月29日 (金)
9:00-9:30
開会式
イルメラ・日地谷-キルシュネライト
スヴェン・サーラ
9:30-11:30
パネル1
イサ・ドッカ
ハラルド・クラインシュミット(筑波大学)
汎ヨーロッパ主義がもはや存在しないという見解は、決して正しいとは言えないだろうが、汎ヨーロッパ主義が思想として重要であったという見解も誇張であろう。汎ヨーロッパ主義は20世紀前半の思想の中で難しい位置を占め、多くの問題を抱える遺産を残した。思想・運動としての汎ヨーロッパ主義は、1920年代の文化的悲願主義に対する動きであった。ドイツ語圏で汎ヨーロッパ主義を提唱した
Richard Nicolaus Coudenhove-Kalergi
伯爵(1894~1972)は、物質主義と近代技術の弊害に対抗する理想主義を尊重するように提唱し、世俗化と社会主義の脅威、そして「ポピュリズムと軍国主義の猛威」に対する防御として、貴族階級の文化の尊重などを唱えたのであった。
物質主義、世俗化、ポピュリズムを敵視した汎ヨーロッパ主義は、貴族階級にのみ価値を認め、貴族階級のみがその世界主義的価値観とヨーロッパに広がる親族ネットワークを通してヨーロッパ統合を実現できるとした貴族階級の伝統的な自負に基づく保守的なイデオロギーであった。汎ヨーロッパ主義者たちは、進歩と平等に反対する一方で平和を主唱した。日本人の母親と人種差別批評家として知られた父親を持ったCoudenhove-Kalergi
伯爵は、汎ヨーロッパの思想を最も明確に表現できる提唱者であった。しかし、その思想の価値観はほとんどの人々にとって魅力のないものであり、矛盾に満ちていた。貴族階級のエリート意識、ふさわしくない形での理想主義的価値観の尊重、そして宗教上の派閥主義によって、汎ヨーロッパ主義は社会の進歩から取り残され、結局ヨーロッパ統合に大きく貢献することができなかったと言えよう。
ジョン・ナムジュン・キム(コーネル大学)
京都学派の三木清と田邊元は、哲学的・政治的思索の柱として、ヘーゲル派哲学の概念である“媒介”を用いている。本発表ではこのことの意味づけを試みる。また、この概念と、世界主義観念におけるある種の曖昧性が、どうつながるかについても述べる。二人がどのようにして、暗黙のうちに“Zum
ewigen Frieden”の中でカントが述べる世界主義の抽象的観念を、日本帝国主義構想の論拠としているかに焦点をあてる。
三木と田邊は、世界主義を、より“具体的”概念として支持し、カントの観念を批判するがために、これを受け入れている。しかしながら、“日本”が個としての存在の主要単位である限り、この、より“具体的”概念は、ナショナリズムと分けては考えられない。ヘーゲル哲学の媒介は、それ自体
“ナショナリスト”ではないが、媒介概念の導入は、カント世界主義の観点から考えると、政治的曖昧さを生む。政治で言う媒介とは、世界のあらゆる主体の徹底的な相互決定により、究極的な世界主義の形を提示する。その一方で、媒介の概念は、まず、既成の、たとえば、大日本帝国といった地政学的領域で適用されることも考えられる。その後、さらに広い、世界全体を対象とした領域への適用が考えられる。大日本帝国が、他の国民国家によって媒介されるというようにである。
後者を、ナショナリズム、世界主義といった概念的なことばで説明することは不可能である。むしろ、後者の場合、媒介は、帝国主義の論理を意味する。ここで媒介という場合は、文化的差異――すなわち、日本、沖縄、朝鮮半島、台湾など――を内部に包含している。このような形の“多文化主義”は現在でもなお存在し、違った形の帝国主義のモデルになっているので、それらの現象の史的考察が現代の世界における新しい形の帝国主義、例えばアメリカ帝国主義の考察にも繋がるのではなかろうか。
ロマノ・ヴルピッタ(京都産業大学)
グローバル化の気運は、現在もはや国家間レベルのことではなく、寧ろ地域が主体になっていると言えよう。20世紀前半に二度の世界大戦があったにもかかわらず、西ヨーロッパ諸国は同世紀の後半において統合プロセスを推し進めることに成功した。そして、このプロセスは次第にヨーロッパほぼ全域にまで拡大している。この成功の背景には、意外にも関係国が統合への強い気持ちを共有していたことが根底にあった。これは、おそらく長い間の競争と協調の体験によってもたらされたものであり、この体験が地域内関係のノウハウとなった。
東アジアの場合は、東南アジアの国々が統合のプロセスを進めたが、北部の国々の関係は依然として二国間関係に留まっている。現在、東北アジアの国々が相互間、また東南アジアの国々との間で築いている強い経済的相互依存の関係は、有機的な統合に発展していない。東アジア諸国の統合を進めることなくして、同地域は世界経済の第三の極としての地位を築くことができないであろう。ヨーロッパの体験は、東アジアの統合のモデルになり得るであろうか?文化、経済、政治の状況は大きく異なり、同地域の統合に中国と日本という二大国をどのように抱き込むかという問題が、これからの東アジアにとって最大の課題である。
ロルフ・ハラルド・ヴィッピヒ(上智大学)
11:30-13:00
昼食
13:00-15:00
パネル2
黒木彬文 (福岡国際大学)
1880(明治13)年に成立した近代日本最初のアジア主義団体・興亜会を取り上げ、その成立の歴史的背景、会の目的、会員構成、会の構造、会員の思想、活動などを明らかにする。つぎに興亜会のアジア主義を批判した自由民権運動の思想家にして自由党の指導者・植木枝盛のアジア主義の展開について私見を述べる。そして植木が没した1885(明治25)年以降の自由党のアジア主義が日清戦争期にどのように変容していったかに触れる。
アンドレア・ゲルマー
リ・ナランゴア(オーストラリア国立大学)
19世紀末期から20世紀中頃までの汎アジア主義の基礎的要素は、西洋の帝国主義に対するアジアの諸民族の団結への気運であった。汎アジア主義者の多くは、宗教や哲学における共通の基盤等、アジア文化の類似性を強調した。ヨーロッパとアジアでは、二つの地域の文明は哲学的に相容れないとする傾向が強かった。そのため、中国人や日本人をはじめとする多くのアジア人は、西洋技術の力を認める一方で、西洋の哲学を拒絶し、アジア諸国を結びつける共通の文化的特徴を見出そうとした。そして、彼らの見出した「東洋の精神」の基盤の上においてのみ、西洋技術の吸収が許された。「東洋の精神」の基盤として最も代表的な要素として取り上げられるのは仏教である。西洋のキリスト教の影響力を抑えるために、日本の仏教家たちは他のアジア諸国の仏教家たちとの提携を唱えた。それによって、団結意思、連帯感が生まれた。この発表では、日本の仏教団体をはじめとする日本の宗教団体が、他のアジア諸国に布教活動を広げようとした動機について検討し、それを通してリージョナリズムの順応性について検証する。また、「アジア統合」の名において、より「文明的」で「新しい」形の仏教である日本仏教を他のアジア諸国の仏教徒に勧めた際に直面した問題を検討する。
野島(加藤)陽子(東京大学)
戦前期において、陸軍が独自の安全観をもって、国防政策や外交政策に影響力を行使していたことは、クラウリー(James B.
Crowley)教授やバーンハート(Michael A.
Barnhart)教授の研究によってよく知られている。これらの研究は、世界恐慌と中国国民党による中国ナショナリズムの昂揚という2つの大きな変動が、東アジアを襲った後の時代、すなわち1930年代以降を分析の中心においてきた。
しかしながら、第一次大戦後から一貫して、陸軍にとって、戦争が起こる可能性の高い問題として自覚されていたのは、中国の経済的政治的「混乱」状態を背景とした日米対立であると捉えられている。それでは、陸軍軍人たちは日本と中国のいかなる関係を理想と考えていたのだろうか。1920年代から40年代にかけて、彼らのいくつかの特徴的な考え方について、本庄繁、宇垣一成、石原莞爾、板垣征四郎らの例から考えたい。
コメンテーター:酒井哲哉(東京大学)
15:00-15:30
コーヒーブレイク
15:30-17:30
パネル3
ロルフ・ハラルド・ヴィッピヒ(上智大学)
ディック・ステゲウェルンス(大阪産業大学)
日本が西洋文明に追いつこうとしていた明治時代には、日本がアジア諸国と同盟を結ぶという考えが、福沢諭吉の脱亜論の下にうずもれていたかのように見えた。しかし、昭和時代に入ってからそのような考えは、右派のレトリックや日本政府のプロパガンダで多用されたあまり、過去を振り返える時、悪名高い「大東亜共栄圏」の構想と同様か、それに連座するものとみなされ、その結果、疑わしい、危険な考えとされてきた。そのため、戦前の近代日本で「尊敬されるべき」人物がそのような考えを持っていても、それを見て見ぬ振りをする傾向があった。そのような考えが無視できないほど極端な場合には、戦前および戦時中の疑わしい内容のために極めて否定的な意味合いを持つ「アジア主義」と一括にされた。
しかし、アジア統合についての考えが、絶えず日本知識人たちの精神構造における一要素であったことを否定することは難しい。また、西洋諸国をアジアから追い出すという長期的政策を共有しない日本人もほとんどいなかった。しかし、この政策は、短期的に政治的、経済的、戦略的な理由から抑制される時が多かった。いずれにしても、こういう考えを表現したもっとも一般的なものは、「アジア主義」とは遠くかけ離れていた。なぜなら、大半の日本人は、反欧米というアジア共通の政治的目標を共有できていたにもかかわらず、アジア人としての共通のアイデンティティを見出すことができず、またそれを見出したとしても、そこに肯定的な内容を付与することができなかった。この発表では、「文明批評家」として知られる1910年代および1920年代のオピニオンリーダーたちの地域統合について考察する。
マイケル・A.シュナイダー(ノックス・カレッジ)
本発表では、インターナショナリストから汎アジア主義者に転向した井上秀子(1875年~1963年)とその夫井上雅二(1876年~1947年)の生涯について考察する。二人の生涯は1920年代のインターナショナリストたちにとって、1930年代の汎アジア主義が魅力的であったことを示している。さらに、二人の生涯を考察する時、汎アジア主義の魅力とジェンダーの重要性についても検討することができる。日本人女性たちは、1920年代の国際外交を目の当たりにすることによって、それ以降、汎アジア主義を支持するようになったと考えることができる。
数多くの驚くような知的転向が1930年代の日本で見られたが、その中でも井上秀子のファシズムへの転向は際立っている。1920年代、井上秀子は日本を代表する女性のインターナショナリストであった。当時、井上秀子は日本国内また国際会議の場で一貫して平和を主張した。しかし、1930年代および1940年代になると、アジアにおける日本独特の立場を擁護し、日本とナチスドイツとの間により緊密な関係を築くことに努力した。井上秀子の汎アジア主義への転向は、汎国家的イデオロギーまたは汎民族的イデオロギーについて何かを示唆しているのだろうか。この発表では、井上秀子およびその夫井上雅二の生涯を考察することによって、これらの質問に答えようとするものである。
発表者の主張は、井上秀子と井上雅二が汎アジア主義に対して、異なったアプローチをしたことは、ジェンダーと汎アジア主義との関係における一般的な真実を示唆しているというものである。1930年代に出世した女性たちは、明確に定義された女性の役割を支持することで出世し、その役割は文化国家的イデオロギーの見方と一致するものであった。1920年代を通して日本の国際関係で女性がより大きな役割を与えられてしかるべきであると主張し続けた井上秀子は、1930年代に汎アジア主義に転向することで、女性が国際関係において活躍できるという考えを推進し続けた。
クリストファー・シュピルマン(拓殖大学)
本報告では、ジャーナリスト、作家、大学教授であった満川亀太郎(1888年~1936年)の思想と行動に焦点を当てる。戦後、日本を専門とする歴史家の間ではほぼ完全に無視されてきたが、早稲田大学で学んだ満川はアジア主義を熱心に提唱し、戦前の日本の右翼運動の中心的な人物であった。1920年代の最も有名なアジア主義・革新派組織である老壮会および猶存社を結成し、その後もその他の急進的組織で活躍した。革新派との関わりの他に、満川は平沼騏一郎の国本社や内田良平の黒竜会などの伝統的な右翼との交際もあった。
この報告では、先ずアジア、アジアにおける日本の使命、日本のナショナリズム、日本の植民地政策、政党政治、人種問題に関する満川の思想の変遷をたどったあと、この変遷を歴史的な文脈の中に位置付け、また満川の思想を形成した国内外の影響について論じる。満川の中でアジア主義とナショナリズムとの間に緊張関係があったことに焦点を当て、満川がこの矛盾にどう折り合いをつけていこうとしたのかについて説明する。次に、満川のアジア主義的な思想が、戦間期の日本の右翼運動にいかなる影響を及ぼしたのかという問題を考察したい。満川の革新的な思想がどのように伝えられ、陸海軍、官僚、ジャーナリストといった満川の広範な人脈の中で、その革新的な思想に対してどのような反応があったのかを検討する。
スヴェン・サーラ
17:30-18:00
討論
2日目 2002年11月30日 (土)
9:30-12:00
パネル4
モニカ・シュリンプ
ロジャー・ブラウン(南カリフォルニア大学)
本発表では、国家主義的知識人であった安岡正篤(1898年~1983年)が表現した東アジアにおける新秩序の理想像について取り上げる。儒教の学者であり、第一次大戦後の右翼団体の主要な活動家であった安岡は、復古革新派の主要人物で、官僚、財界、宮中の有力者たちの指南役でもあった。ベルサイユ条約の時代から、安岡が思い描いていた汎アジア主義は、東洋的教養から活力を得、有徳な官吏あるいは君子の監督の下で実現される東アジア文明の復興であった。これは本質的には、王道の原則に従って国内の日本的維新を図る必要があるとした安岡の主張を特徴付けた大局観と共通している。安岡にとって、これらの価値観は満州国統治のための最善の手法であったばかりではなく、日本を治める上でも最善の手法であった。さらなる拡張によって戦争が始まると、安岡は大東亜建設への中国の協力を取り付けるために中国王朝史についての自身の知識を指針として提供することを申し出る一方で、日本の優れた人材が進み出て、日本国内外で王道の実現に協力するように呼びかけた。
ケヴィン・ドーク(ジョージタウン大学)
本発表では、戦時中の日本で知識人や官僚等が幅広く共有し、推進した新しい形態の地域主義のビジョンについて考察する。この新しい地域主義は後に「東亜新秩序」と呼ばれた。現時点では、日本帝国主義のおおよその特徴と1930年代中頃の国際社会からの日本外交の撤退の影響について理解が深まっているが、日本の地域主義の文化的イデオロギー研究はそこまで進んでいない。
この発表で、アジアで地域主義を確立しようとした日本の努力の背景にあったビジョンは、第一次大戦開始頃から始まった重要な社会的アイデンティティとしての民族性の再発見によって特徴付けられていたということを主張したい。1930年代までに国家または「フォルク」(民俗)のアイデンティティに対する新しいアプローチが台頭し、このアプローチは民族のアイデンティティまたは国家の柔軟性を強調した。高田保馬は、東アジアのほとんどの人々が政治的に独立した国家を目標としていた時に、東アジアのすべての人々を含む、より広い意味での「民族」を唱えた。高田の考えは、民族学者の岡正雄が示した階層制の社会構造の概念に組み込まれた時、新しい地域主義を形成する上で有益であった。岡の「民族秩序」の概念は、東アジアを同地域の様々な民族を垂直の階層に並べたものとして見ていた。最後に、戦時中の福祉省の官僚たちは東アジア政策を立案し、これらの異なるアプローチを統合することを試みた。結論として、戦時中の東アジアにおける地域主義への支持、また特に「民族」という概念の役割と範囲を綿密に検討することによって、東アジアの地域主義を復活させようとする今日の動きが、過去からの概念を遺産として受け継いでいるという驚くべき事実が明らかになる。
ゲルハルト・クレプス(ベルリン自由大学)
「人種主義」を世界観の中核におくドイツ総統ヒトラーは、基本的に全ての非ヨーロッパ「有色人種」を嫌ったのであり、それは政治、外交にまで影響を及ぼしたと言えよう。その中で日本人も一時的に例外となったのにすぎなかった。ヒトラーの基本構造は全世界でヨーロッパ人の優位を強化するということが第一目的であったが、これは東アジアから「白人」を追放するという日本の目的と鋭く対立した。奇妙なことに、ヒトラーは第二次大戦中、アジアにおける英国領土を守るために、英国に軍事援助を提供することを考えたと言われている。
先ず、日本とロシアが敵対視していることを理由に、ヒトラーがロシア・ソ連の永年の敵である日本への接近を試みた。更に、ヨーロッパ大陸におけるドイツの自由な足がかりと引き換えに、英国に海外への足がかりを与えるという提案を拒否されたため、日本との軍事提携はより魅力的になった。日本はドイツとの関係をいったん切るが、1940年オランダ、ベルギー、フランスに対する予期せぬドイツの勝利に続き、英国までもが敗北の瀬戸際にあるかのように見え始めたことにより、ドイツとの接近に新たな興味を示した。ドイツの味方となることで日本は東南アジアにおけるヨーロッパ諸国の植民地、特に石油資源豊富なオランダ領東インドを獲得する機会を得た。
1940年9月三国同盟が、米国に対する「防衛同盟」として成立し、世界をブロック化する合意がなされた。日米開戦になると、ドイツとイタリアも米国に宣戦を布告するようになった。しかしながら日本とドイツの不信感は拭いきれなかった。イギリスとドイツの“民族的親近感”を背景に、ヒトラーはしばしば“イエロージャパニーズ”と同盟を決めたことに後悔している様子をイギリスに示した。それに加え、日本の軍事的勝利に対し、ドイツでは「黄禍論」が再現する恐れもあり、ヒトラーが戦中にアジア人を犠牲にし、イギリスとの平和条約を目的としていたことも日本ではよく知られていた。
波多野澄雄(筑波大学)
12:00-13:30
昼食
13:30-14:30
パネル5
スヴェン・サーラ
ヴィクター・コシュマン(コーネル大学)
日本史における日本のアジア主義を考えてみると、理想化された非常に概念的な認識の「アジア」に依存する傾向がみられる。実際、このような「アジア」という概念は無意識のうちにこの地域の複雑かつ多様な「実際」の現象に取って代わっていることもある。そのような場合アジアは、集団的幻想となり、特に政治や軍が介在する政策がこのような幻想に基づくとなると、その結果は悲惨的になりかねない。
勿論、汎アジア幻想が強まった1930年代半ばからアジア太平洋戦争が終わるまでの時代においても、日本のアジア政策に関心を持つ人の間ですら、広く受け入れらたことはなかった。政治学者蝋山政道のような解説者はアジアの「運命」に関しては独自の空想を持ちながらも、アジア政策を討論するたびに現実主義、経験主義そして理論的な分析を織り込もうとした。「アジア」は自然に結合した「地域」では決してないという受け止めたくない事実に注意を喚起し、さらに日本は「大東亜共栄圏」の中に取り組もうとしている地域と歴史的にみてほとんど交流がなかったと指摘している。この時代に蝋山が取ったアジアへのアプローチで注目すべき点は、蝋山自身がアジア共同体の構築を目指した政治プロジェクトに対して非常に主体的で、道具主義的な態度をとり、偏狭なナショナリズムを超越し、アジア地域の本来の性質の中に取り組んでいかなければならないと確信していたことである。
初瀬龍平(京都女子大学)
日本のアジア主義では、ナショナリズム(膨張主義的)、西力東漸への反応、及びアジア人への共感がその要素となっており、そこには国家、国際、トランスナショナルの三面がある。アジア主義の表現形態では、政治的、経済的、文化的に分けることができるが、そのいずれが強調されるかは、基本的には国際関係の変容にかかわっている。
戦前では、アジア主義は、アジア諸民族の民族独立運動との関連で、主に政治的なことが目立った。しかし、戦後にアジアの諸民族がほとんど独立し、経済開発を国家目標におくようになると、アジア主義はむしろ経済的な面が強くなっていた(アジア主義は消えたように思えた)。冷戦が経済的にもアジアの地域主義を阻害していた。しかし、冷戦期でも、日本のNGOは、アジアの地域的な自立、コミュニティの自立に協力を始めており、今日では、アジアでトランスナショナルな人々の相互活動が活発化している。これを新しいアジア主義と呼ぶのがよいかどうかは分からないが、この新しい動きの意味は、アジアに人と人の世界を作るうえで重要である。
報告では、まず全体の見取り図を述べ、次に戦前、戦後、冷戦後の現在に分けて、日本のアジア主義の変容を分析し、最後にNGO活動家の実践例を紹介したい。
14:30-15:00
初瀬龍平(京都女子大学)
15:00-16:30
パネル5(続き)
小熊英二(慶応義塾大学)
1950年、当時もっとも人気のあった知識人の一人だった清水幾太郎は、「いま、日本人はふたたびアジア人である」と述べた。敗戦で打ちのめされ、経済的にも貧困におちいった戦後日本の知識人たちにとって、日本は西洋列強の一員ではなく、弱小な「アジア」の国として意識されていた。そこから、西洋近代に学べという志向と、「アジア」と伝統を再評価せよという志向の、日本近代史上何回目かのぶつかりあいが発生した。
この報告では、戦後日本の進歩的知識人を中心に、彼らにとって「アジア」とは何だったのかを検証する。そして、敗戦直後の時代から高度成長期にかけて、そうした「アジア」像がいかに変容したかを概観する。それは同時に、「西洋」と「アジア」という二つの他者の間で、日本のナショナル・アイデンティティがいかに揺れ動いたかを検証することになるだろう。
クリスティン・デネヒィ(カリフォルニア州立大学フラートン校)
日本は1955年4月インドネシアのバンドンのアジア・アフリカ会議に出席した。1945年まで日本は帝国主義国であったにもかかわらず、1955年には進歩的な日本の知識人、歴史家が、日本のバンドン会議参加により西洋(特に米国)帝国主義に対抗するアジア・アフリカ連帯の重要性を示すことを強調した。日本のそのような知識人の考えでは、アメリカによる日本占領が終了してちょうど3年目に開催されたバンドン会議への参加が、冷戦体制における他の国々との連携意思を示す機会であった。そう言う意味で、バンドン会議およびインドのデリーで開催された1955年のアジア会議は戦後の重大な交差点であり、新しく形成しつつある国際秩序への日本の抵抗を表すものである。
この発表で、戦後の進歩的な知識人たちは日本の帝国主義の歴史を批判しながら、同時に国際政治の批判の一種として汎アジア主義を唱えたことを強調したい。この汎アジア主義という新しいレトリックの裏には反核と反帝国主義という感情的な動機があった。その中で最も注目すべき点は、戦前の日本人が日本のエリートによって犠牲にされただけではなく、戦後の日本人も占領期における米国の覇権、及び冷戦体制での核の傘下によって、犠牲にされつづけた。
藤原帰一(東京大学)
16:30-17:30
最終討論
三輪公忠